【2012年12月29日(土)】師走の京市内と大和路を歩く#5
元祇園梛神社から四条通を東に向かって歩く。
友人が作ったスマホのアプリ「京都MAP いい日旅立ち」のナビを使って、次の目的地である「空也堂」へ。
堀川通を左に曲がっていくと到着。
門は閉ざされている。
が、予め12時頃に拝観させていただく予約の電話をしておいて快諾を受けている。
右手の扉から中へと入らせていただく。
境内には大きなお地蔵さんが立っていらっしゃる。
玄関を開けて、「すみません」と言うものの、誰も応じないので、大声で言うと奥の方から奥様がお越しになって、「ようこそ、どうぞ」と言われるままに、ご本尊の前に連れて行ってくださるので、参拝させていただく。
その後に、作務衣姿のご住職が出て来られて、「お茶でもどうぞ」と本尊の前の奥の間でお話をいただく。
「御本尊の空也様は六波羅蜜寺の空也像に似ているのですね」と言うと、「六波羅蜜寺のはえーと慶派の誰だっけかな?」「湛慶ではなかったでしたっけ?」「そうそう」と話が始まった。
平安仏教は一部の貴族層に信仰されていたが、空也上人は、元々仏教というのは、皆が平等ではないかと思われ、比叡山の修行時にドロップアウトされたわけですわ。
当時は一般の人が立身出世するには、得度して僧侶になることが一番だったのにもかかわらずですよ。
そして、一般の人に布教しようと京の町、そして全国を歩かれました。
念仏をお唱えすることを広められたのですが、当時は市中に死骸が多かったので、髑髏を集め弔ったり、流れた橋を修理するなど、いわば社会活動をされていらした。
すると、一般庶民のファンが付いて来て、いわば今でいう追っかけですわ。それを空也僧と言うようになり、貴賎を問わずにファンが増えていった。
四国や奥州にも行かれたが、どこで亡くなったかは分からない。
空也堂は空也上人が京に居た時に念仏を練習する市中道場として三条櫛笥にお造りになったのがきっかけです。
その後、空也さんが可愛がっていた鹿を誤って殺生した平定盛が仏門に入り受け継いだわけですわ。
江戸時代は塔頭が8つもあった大きなお寺で、今でも全国に空也僧がいらして世襲的代々伝わっておられる。
それで、ここは踊躍(ゆやく)念仏発祥の地であるわけです。
六斎(ろくさい)といって、月に6日汚れた日があり、今でも13ぐらいの講が残っていて、明治期には歌舞伎の顔見せの時にお参りされたことで、やがて芸能化していったわけです。
六斎念仏は色々な時に行い、現在は保存会でも行っている。
この寺は、東海道中膝栗毛にも出てきます。
今は、信者さん、空也僧、踊躍念仏をお守りしている寺です。
地域のコミュニティがなくなった今こそ、仏教の元々の教え、まぁいわば哲学ですなぁ、それを大学でも教えれば良いのにと思うとるんです。
ご住職の話し上手なところに次第に惹きつけられていった。
元は大学の農学部で教鞭をとられていたという。親戚が亡くなって、この寺を継ぐ者が居なくなったので、比叡山で3ヶ月間修行されご住職になられたという。
仏教は宇宙観というか世界観というか、それが真髄ですわ、と説かれた。
空也像は江戸中期の作という。
既に40分も経ってしまっていた。御朱印をいただいてお暇させていただいた。
最後に、時間があるときはいつでも電話してきてくださいと、気さくに言われた。