【2012年8月13日(月)】2012年夏福井・奈良・京都旅行#50
旧柳生藩陣屋跡を過ぎて、旧柳生藩家老屋敷への道すがら、柳生八坂神社があった。
もとは四之宮大明神として奈良の春日大社の第四殿比売大社を祀っていたが、1654年に柳生但馬守宗矩の息子である宗冬が、スサノオノミコトの分霊を勧請して八坂神社とした。
石燈籠が並ぶ参道の向こうに社殿が建っている。
拝殿は天之石立神社のものを移築したという。
参拝後に、歩いていくと小高い丘があった。「摩利支天」があると表示されているので、登って行くと石碑に三面六臂の摩利支天が浅く彫られいる。
これは、八坂神社を創建した宗冬が武道の守り神である摩利支天を祭ったという。
(これは復元されたレリーフ)
そこには、柳生家のことが書かれていた。
柳生石舟斎宗厳は、上泉伊勢守信綱から新陰流を学び、「無刀取り」を会得、柳生新陰流として印可を受け継いだ。
石舟斎の五男の但馬守宗矩は徳川三代の兵法指南役と柳生藩大名となり、幕府の大名付となり、「天下治国の剣」を大成させ、「武士道の精神」を固めた。
そして、宗矩の長男十兵衛は剣禅道場で13,000名余の剣士を養成し、「月の沙」を書き残した。
柳生の里である。