【2012年7月14日(土)】
学生の頃から社会人の初めにかけては、よく
「ブリヂストン美術館」に通っていた。企画展ではなく常設展で、一番印象に残っているのは、ロートレックやマチス、ピカソの作品たち。
その後足が遠のいてしまったが、久しぶりに
「ドビュッシー、音楽と美術 印象派と象徴派のあいだで」という企画展を観に行く。
この日は初日。開館が10時なので、5分前に東京駅南口から数分の美術館に着くと、既に50人程度の人が並んでいた。
開館すると、当日売りのチケット売り場は行列、その横をガイドさんが「11時15分に集合ですよ」と叫びながら、団体客が入って行く。1時間15分では無理だろう。
さて、クロード・アシル・ドビュッシー(1862-1918)は、言わずと知れた19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスを代表する音楽家。
その時代は、ジャンルを超えた芸術の影響が顕著に表れ、音楽や美術、文学、舞台芸術が互いに影響し合っていた時代でもあった。
今回の企画展は、パリのオルセー美術館、オランジュリー美術館、ブリヂストン美術館の作品を中心に構成されている。
第1章:ドビュッシー、音楽と美術
「私は音楽と同じくらい絵が好きなので」という彼は、視覚芸術を重要な着想源にしていたという。
第2章:≪選ばれし乙女≫の時代
音楽家であると同時に詩人である両義性を持つ彼の初期の代表作「選ばれし乙女」は、イギリスの画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティの詩「選ばれし乙女」に共感して作曲されたという。
ダンテ・ガブリエル・ロセッティの「祝福された乙女(習作)」は栗色の髪の女性が物憂げな表情が印象的で、ドビュッシーの着想源になった。
第3章:美術愛好家との交流
ローマ留学後に象徴派の芸術家たちと交流が始まる。アンドレ・ジットやポール・ヴァレリーとの出会いもあり、エドガー・ドガとオディロン・ルドを敬愛し、友人でもあり支援者でもあるアンリ・ルロールとは生涯を通じて親交があった。
ドガの作品は「浴後」にしても「踊り子の稽古場」にしても、一瞬を切り取りそこに女性の精神を詰め込んでいる。
第4章:アール・ヌーヴォーとジャポニズム
近代性を重視したドビュッシーはアール・ヌーヴォーを高く評価し、日本や中国の美術に見られる省略的表現方法、繊細な色調、洗練された技法を愛した。
エミール・ガレのガラス細工もある一方で、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は彼のコレクションでもあった。
波が荒れ狂う細かく省略的な中で、遠くに富士山が描かれている作品は、書斎に飾れていた。
第5章:古代への回帰
代表作である「牧神の午後への前奏曲」は1892年に作曲される。古代美術への関心が高まったいた時代。
第6章:≪ペレアスとメリザンド≫
メンデルスゾーンの「ペレアスとメリザンド」の歌劇を創り、フランス内外で高い評価を受けた。
第7章:≪聖セバスチャンの殉教≫≪遊戯≫
1911年に音楽劇「聖セバスティアンの殉教」を、1912-13年にバレエ音楽「遊戯」を作曲する。
ここではガブリエーレ・ダヌンツィオの可愛らしい如何にもフランス風の絵本も展示されていた。
第8章:美術と文学を音楽の親和性
他ジャンルの芸術家との親交がお互いを刺激し合っていた。
リヒャルト・ワーグナーにも魅了され、バイロイトに2度ほど訪問したとあった。
クロード・モネの「黄昏、ヴェネツィア」はモネの独特な手法で、燃えるような空とそれを映す海の向こうに協会がある島をシルエット的に描いている。
モンドリアンの「砂丘」も点描写で美しい作品。
第9章:霊感源としても自然-ノクターン、海景、風景
クロード・モネの「睡蓮」や「雨のベリール」に加え、エドゥアール・マネの「浜辺にて」は浜辺で白いベールとドレスに身を包んだ淑女の傍らにベレー帽を被り肘をついて横たわる紳士。
第10章:新しい世界
成熟期の作品は、旋律、音色、リズムがそれぞれ分割される技法となっているという。
アンリ・マティスの原色を使った「画室の裸婦」は強烈的な配色であった。
ドビュッシーの音楽と美術の関わりは十分に分かった。
ただ、展示会の順路が分かりにくく、作品のNo.も小さく観にくかった点があった。
パンフレットの表面を飾るのはルノワールの「ピアノに向かうイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロール」。
ドビュッシーの支援者のルロールの娘二人が当時の上流階層で市民権を得たピアノに向かう姿。
会期は10月14日まで。