【2011年3月19日(土)】「白洲正子 神と仏、自然への祈り」#3
♯1でも書いたが、この震災後の今、僅かばかりの募金をし、節電に努め、買占めすることなく、自然の驚異を感じ、人災を避けて、日本の復興に手を合せて「祈る」しか自分には出来ない。
今回の企画展のパンフレットの末尾に「白洲正子の眼を通して、いにしえより連綿と続く日本人の神や仏、自然への信仰をご一緒にお考え頂ければ幸いです。」とある。
海外からの「Pray for Japan」に接する度に、日本人の資質、日本文化の特性など日本の原点を見つめる機会ではないかと思う。
♯2の続きを。
6:十一面観音
「≪焼損仏像残闕(千手観音像トルソー)≫奈良時代 松尾寺」
まるで現代芸術のようなトルソーである。焼損しているとはいえ、見事なフォルムに暫く眼を奪われてしまった。
正子は「・・・ひときは目をひく彫刻があった。もはや彫刻とは呼べない、大きな木のかたまりである。頭も、手も失われ、全身真黒焦げに焼けただれているが、すらりと立ったこのトルソーは、いかにも美しい。」と語る。
「≪十一面観音立像≫平安時代 白洲正子旧蔵」
穏やかな表情で、流れるようなほっそりとした体躯の1mほどの観音様。正子の愛蔵品で5年間ほど一緒に暮らしていたという。
7:明恵
「≪「手を合せる」直筆原稿 平成8年≫」
正子は「手を合せるとういうのは、古今東西を通じて、神に祈る時のかたちである。
そこに十字架とか、マリア様とか、神像や仏像のたぐいがある時はやりやすい。人に祈ることを教えるためにそういう目標を造ったのではないかと思うことさえある」と書く。
8:道
「国宝≪雲中供養菩薩像(北一号)≫平安時代 平等院」
平等院鳳凰堂にあった飛天52体のうちの1点。顔と体をやや右に傾け、琴を弾き、優雅さに溢れている。雲の彫りが流れるようで、浄土からやってくる姿をよく表しているようだ。
正子は「・・・そこには古代の自然信仰から、仏教へ移って行き、再び自然の美しさに開眼した人間の、まったく新しい思想がある。」と語る。
9:修験の行者たち
「重文≪役行者神変大菩薩像≫鎌倉時代 櫻本坊」
奈良・吉野の櫻本坊でこれまで二度お目にかかった役行者。普通は老人の姿で表されることが多い役行者だが、これはエネルギッシュな19歳の時の像だという。
正子は「文化は発達しすぎると、柔弱に流れる。人間は自然から遠ざかると、病的になる。そういう危機からいつも救ったのは、山岳信仰の野性とエネルギーであった」と語る。
また、「特に信仰の対象となるものは、祀られている場所で見るに限る。見るのではなく、拝まなくてはいけないだろう。祈らなくてはいけないだろう。」と語る。
10:古面
「≪舞楽面 陵王≫江戸時代 春日大社」
春日大社で見たおんまつりで、正子は「明るい満月のもと、かがり火に照らされて、金色にかがやく急テムポの乱舞いは、この世のものとは思われず、心身ともに陶酔したものであった。」と語る。
白洲正子が体験してきた「神と仏、自然への祈り」をこの展示会で少しではあるが追体験出来た。そこには、日本人の持つ特有の審美眼と自然信仰の織りなす文化がある。
今回の震災からの一日も早い復興を「祈る」。