【2006年12月29日(金)】 2006年年末京都#2
この日は京都市内で今シーズン初めての雪。
京都のランドマークというと、駅前の京都タワーか東寺の五重塔であろうか。羅城門の方から九条通りを歩いてくると、南大門や周囲の築地塀がかなり高いために意外にも五重塔はなかなか見ることができない。
【蓮花門】
西側には空海が最後に高野山に向かう際にその足跡に蓮の花が咲いたということから名付けられた蓮花門がある。
(現在の門は1191年に再建されたもの)
【南大門】
823年に嵯峨天皇から東寺を賜り、教王護国寺としてスタートした東寺は、西寺が早くに廃絶となったのに対して災難が続いたとは言っても現在まで存続している。西寺同様に東寺も幾度も火災(戦火も含め)にあっている。
では、西寺と東寺の違いは何であったろうか?
それは西寺がそのまま官寺であったのに対して、東寺は空海に下賜されたからだという。謂わば官と民の差が存続に大きく影響しているという。
官立寺院は国の税金を資金源として運営されていたため、その財政が破綻すれば、運営資金も途絶え再建が出来なくなる。
一方、空海の真言密教寺院東寺は、私寺として資金調達をして運営されることになった。(今の私学と同様に国家からの補助金はあったであろうが、)修行者、信者、近隣住民らステークホルダーによって支持され、資金・労力などを得ることで運営できたのであろう。
その存立への思い入れが寺を護ってきたのであろう。自分(達)のこととの思い入れができるか否かの差は大きい。
【弘法大師】
南大門のすぐ横に弘法大師の像が立つ。
空海がこの教王護国寺を給賜された時には、金堂(本尊は薬師如来)は既に建立されていたため、講堂を真言密教の理想実現のお堂として建立された。
その当時までは今と違ってこの寺は○○宗というように宗派が決まっていたのではなく、寺院は様ざまな学問宗派の総合研究所的な存在であったというが、空海が初めて東寺を真言宗の寺としそれ以外の宗派の僧を排除し、密教の道場としたという。
【立体曼荼羅】
講堂には21尊の密教像(五智如来、五大菩薩、五大明王に梵天、帝釈天、四天王)が空海の構想による立体曼荼羅として並んでいる。
ちらつく雪が講堂に入り込んで深閑とした中で諸像に接していると、途中で一転陽の光が差し込んで諸像が輝いた。
それにしても五大明王軍団はすごい。不動明王こそ顔が一つで手が二本と人間と同じだが、忿怒の表情はこの世のものとは思えないし、他の明王は人間とはかけ離れた顔手足眼を持つ。しかし、そんな顔かたちなのに、この世にいてもおかしくはない、素直に受け入れられるのは何故だろうか?
・不動明王:一面一臂
・降三世明王:三面八臂
・軍荼利明王:一面八臂
・大威徳明王:六面六臂六足
・金剛夜叉明王:六面六臂
【五重塔】
京都のランドマークとして親しまれている五重塔の初層内陣には、心柱を大日如来に見立て諸尊の曼荼羅が広がっている。(1月1日から4日間公開されるというが、未だ見ていない)
江戸時代には平賀源内がこの塔の最上層に登り市内を見渡して絶景と評している。もちろん塔は火見櫓ではないので登るためには出来ておらず、苦労して登ったようだ。
【2006年12月29日(金)】 2006年年末京都#1
今年も年末恒例の京都旅行にやってきた。
降雪により関ヶ原付近で速度を落としたので10分程度到着が遅れたが、9時半過ぎに京都に着いた。
新・都ホテルからタクシーに乗り、「西寺(さいじ)跡までお願いします」と告げると、「どこやったけな?」と運転手さんは本部に無線で連絡し「西寺、お寺の跡まで誘導お願いします」という具合で、京都駅の近くなのだが以前に一度ほど行ったことはあるが正確には分からないらしい。
なので、もちろん観光地ではない。
奈良時代の南都七大寺をはじめとする仏教勢力の政治への関与を排除し、朝廷の権力の復権を目論んだ桓武天皇は、南都の寺院はそのまま平城の旧都に残した。
天平仏教の隆盛は国家財政の逼迫を引き起こし、地方政治は混乱していた時代でもあった。
その後の奈良の寺院は衰退の一途をたどる。
【西寺跡】
平安遷都(794年)の直後に官寺(国立寺院)として羅城門を挟んで、西に「西寺」、東に「東寺」がそれぞれ右京、左京を護るために建立された。
西寺も東寺と同様に大伽藍の寺院であったらしいが、火災による消失後に再建されることなく衰退してしまったらしい。
タクシーは程なく児童公園に着いた。
現在は公園の小高い台の上に礎石が残り石碑が建つだけで、往時の面影は全くない。
【羅城門遺跡】
新幹線で京都駅に降り立つと、駅が京都の門で、そこから北を眺めると、昔の都はここを中心として東西にそして北に伸びていたのかと思ってしまう。
あるいは京都御所に行けばそこを基点として南に都があったのかと思ってしまう。
しかし、平安京の中心線は、現在の東寺よりも更に西にあった羅城門で、そこから幅約84mで北に伸びる朱雀大路であった。内裏は現在の御所より西に位置していたし、京都の繁華街である四条河原町は都の外れであった。
芥川龍之介の小説では「羅生門」として荒れ果てて修理もままならない門の姿が描かれている。
その遺跡がこれまた公園の中にある。
間口32m、奥行8m二重の楼閣であったという。その巨大な雄姿は思い浮かべようもないが、南禅寺や知恩院の南大門のような感じであったのか、遺跡の横の矢取地蔵内に模型が展示されていた。
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今まで東寺は訪れていたが、西寺の存在は知らなかったし、羅城門も遺跡に行こうとはしなかったが、今回の旅は、往時の平安京に近づくために、都にやってくる人々が必ず通る羅城門とその東西に聳えていた大伽藍の寺院を眺めることから入ってみようと思った。
遺跡は過去を映し出すものではないが、訪れることにより往時を偲んでみることができ、そこで時代をも旅できるような気がした。
【2006年12月24日(日)】
ブログの引越し。
これまでのブログは
<こちら>
【夢違観音】
法隆寺宝物館にある白鳳期の代表作『夢違観音菩薩立像』
悪夢を善夢に変えてくれるご利益があるという。
そうだとよいなぁ、という願いもあって、新しいブログのタイトルは『夢違い』。
悪夢ではない<現実世界>だといい。
これは小学生の時に母親に強請って買ってもらった木造のレプリカ。
今も自宅に鎮座している。