【2007年10月20日(土)】
世田谷区の広報紙などほとんど見ないのに、9月15日のお知らせは何故かめくって見た。すると、文化財保護条例30周年記念事業「せたがや文化創造塾」のいくつかの講座の中で、「仏像は美術品か?」という講座名が目に入った。
往復はがきで申し込むという前近代的な手法でしか応募を受け付けないので、仕方なく往復はがきを買って応募した。抽選とあったが、無事に当選でき、20日に三軒茶屋の世田谷産業プラザで受講することとなった。
講師は「週刊原寸大日本の仏像」も監修している女子美の教授稲木吉一氏であった。
「仏像は美術品か? 仏像をめぐる価値観」というタイトルで美大の教授とくれば、「仏像は美術品である」との答えになるであろうことは承知していた。
また、最近読んだ白洲正子の「わたしの古寺巡礼」でも女史は信仰のない自分にとって仏像は美術品であるということを書いていた。
さて、自分にとってはどうか?というのが受講のきっかけであった。
そもそもの「美術」という言葉自体が明治に入ってからの造語であり、現在の芸術一般の概念であったこと、その美術の概念は遠くギリシャ彫刻の時代に作られたこと、一方で日本でも「うつくし」という小さなものを愛しむ感情は枕草子にも出現していること、など美術的な観点での解説があった。
仏教美術という仏像や仏画、仏具などを鑑賞の対象として美的なるものとして扱ったのは、フェノロサの影響が大きいようである。彼が岡倉天心とともに法隆寺夢殿の救世観音を開扉させてその美術的な価値を評価したことはつとに有名だが、その背景には日本で西洋美術の概念が入ったことがあるようである。更に廃仏毀釈を食い止めた功績もあるようだ。
ただ、これはあくまでも仏像を「鑑賞」する立場からの見方だ。
本来仏像は仏教の経典を分かりやすく具現化したものであり「崇拝」の対象である。「見る」ことを第一義に造られているわけではないことは、秘仏として公開されていない仏像が多くあることからも理解できよう。
一方で、文化財としての価値は、美術品という枠を超えて人間の歴史的な営みとしての価値というものもある。
また、仏像が造られた背景には、人間が持つ悩みや弱さや願いを素直に第三者である崇高な対象に託したいという魂の根源的な拠り所を求めるというごく自然な行為が、人間としての本来的な姿だったからではないだろうか?
その自然な姿が失われて久しい。
今、信仰や宗教心が希薄な日本で、それでも仏像を「美術品」としてでも観ることは、美術や文化という枠を超えた、人間としての自然な営みに通じるものがあるのだろうか?