【2011年5月6日(金)】湖北・湖南・奈良古刹巡礼の旅#39
斑鳩の吉田寺からひまわりタクシーに電話する。「今、吉田寺なんですけど、額安寺(かくあんじ)まで行きたいので1台尾根がします」と告げると、「あー、ぽっくりさんね、分かりました」との返答。
暫くしてタクシーが到着。「どちらまでですか?」と若い運転手さん。「平端の額安寺までお願いします」「額安寺?」と言いながら、無線で「すみませんが、額安寺ってどこですか?」と訊いている。知らない地名のやりとりがあって、「あー、大体分かりました。でも、7年間やっていますけど、初めてですわ。勉強になります」と言いながら目的地に向かう。
途中、再度無線で確認し、地元のおばさんにも尋ね、ようやくのことで、それらしきところを発見。しかし、そこへの道がよく分からない。「もう、メーター切りましたから」と言いながら、「ほー初めてですわ、ここですね」とお寺の正面に着けてくれて、「いやー勉強になりました、すいません遅れてしまって」と言って、ポケットティシュを2つくれた。
受付には若いご住職と、境内の草取りをしているそのお母さんらしき人がいた。拝観とご朱印をお願いすると、「ご朱印は3種類あります」というので、「虚空蔵菩薩さんで」とお願いした。
先ずは、本堂へ。
本堂内は密教的な雰囲気で、お勤めの結界が設けられ、その奥厨子内に、ご本尊の十一面観音立像が安置されている。
非常に彩色がよく残されていて、ぷっくりとして艶やかで感じがいい。厨子の扉絵も立派であるが、残念なことに、厨子の幕で、ご本尊の頭上に掲げららているであろう化仏までは見て取ることが出来なかった。
厨子の左右にも不動明王や愛染明王など沢山の仏像が祀られていて、いずれも素晴らしく圧巻である。
本堂をでると、本堂の右手に収蔵庫がある。
中には、日本最古と言われる虚空蔵菩薩半跏像が安置されている。この仏像は、密教の修行法である虚空蔵求聞持法を日本に伝えた道慈律師が、奈良時代に安置したとされている。
すっきりとした顔容、痩身で引き締まった体躯、蓮華台に左脚を踏み下げ、右手には蓮花を携えている。尊像にも円光背にもうっすらと彩色が残っている。宝冠や瓔珞の細工も極めて繊細である。蓮華座は一枚一枚の花が外側に開いて花模様がきれいである。
求聞持法で智恵と福とを授ける仏様として、存在の大きさを感じ取ることが出来る。
額安寺は、621年に聖徳太子が建立した学問道場「熊凝(くまごり)精舎」を置いた所であり、往時はかなりの大寺であったようであるが、衰退の一途を辿り、明治期には廃寺に等しい状態だったという。
帰り際に、受付でご住職からご朱印をいただきながら、話をしていると、「このお寺は長いこと忘れ去られていたお寺で、ようやく先代から少しずつ復興を行っている」ということだった。
収蔵庫を造った時は「文化庁はほんのわずかなお金を出した」と、どこのお寺でもお話の出る文化庁の、口は出すが金は出さない、ことを笑っておられた。
「見仏記、見られてますか?」と訊かれたので、「東京なのでやってないんですよ」と答えると、「先日、撮影が入って、みうらじゅんさんといとうせいこうさんが来られました。何だが、興福寺と一緒になって出るとかで。みうらさんは長いこと(虚空蔵菩薩を)見てはりました」と語られた。
最後に、平端駅までの道を尋ねると、丁寧に教えてくれ、25分ぐらいかかりますよと言われた。
平端駅15:04発の電車で西大寺方面に向かった。