【2009年8月29日(金)】
約1ヶ月間かけて、ドストエフスキーの「罪と罰」(亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫)を読了した。
ストーリー性だけを追い求める現代の小説や映画に欠如している<人間性のテーマ>の存在が、この小説を世界の名作に押し上げているのであろう。しかし、それを読み解くことはいたく困難である。
題名の「罪と罰」は主題そのものであることは確かである。
では一体、何が「罪」なのであろうか?ラスコーリニコフが二人の老女を殺害した行為自体は殺人であることに変わりはない。しかし、彼にとってはそれはシラミを殺すことと同じであった。従って、<殺人という語彙=悪>ではないのである。「罪」とは何かを一線を越えて犯してはならないという思想上、理性上の価値判断があってこそ、その行為は「罪」となりえるのではないか?
だから、ラスコーリニコフの行為は「罪」として問われないのかも知れないのであると、ドストエフスキーは、読者、世の中に投げかけているのではなかろうか?
そして、では一体、そのような「罪」に対して、それに相応する「罰」とは何であろうか?というものが、ドストエフスキーもう一つの問いかけなのであろう。
「罰」とは「罪」に対してのものである。その行為を「罪」と認知していない人間に対しては、「罰」という価値を理解することはないことであろう。
「罰」の意義を理解しない(そもそも「罪」の意識さえないのだが)人間に、何を殺人という行為に対抗しうるものを持つことが出来るのか?
今年から始まった裁判員制度においても、この主題は重要なことである。
「罪」の定義と受容が行為者(あえてここでは行為という語に留めておく)に存在しない場合、その行為自体を第三者が、相応の「罰」として審判することの正当性というものはあるのだろうか?
小説そのものは、登場人物の台詞や独白が長いにしても読みやすい。が、このように主題の深遠さを思考すると、「罪と罰」という本がドストエフスキーという作家名やロシア文学に登場するやたら長い名前などと相俟って難解なものとして読書への壁を作っているのかも知れない。
だが、文学とはそうした思想・哲学であって、人間の存在やその行為に対しての研究であるわけで、その壁を乗り越えなければ、文学に触れたとは言えないのである。
夏休みの課題図書2は高村薫の新作「太陽を曳く馬」である。上巻を読み終え、これからがクライマックスのところだ。